キカイガシマとは?

 昨日、名瀬公民館で行われた”「沖縄文化はどこから来たか」研究報告会”へ行ってきました。(奄美に関して学べる講演会などのお知らせや書籍紹介は上記「奄美学入門」ブログでご案内していますので、ご利用下さい。)
 この報告会は2009年に発行された「沖縄文化はどこから来たか―グスク時代という画期 (叢書・文化学の越境)」の執筆陣によるもので法政大学沖縄文化研究所と関係する方々です。
 書籍は発刊されてすぐ入手して読んでいたはずですが、読み落としていた部分が多くて、あらためて読み返している途中です。

 なかでも奄美市立奄美博物館の高梨修さんによる「南島島嶼における硫黄交易考」は興味深い内容でした。
 高梨さんは小湊フワガネク遺跡を代表とするヤコウガイ(夜光貝)に関して第一人者の方で「沖縄文化は・・」では土器について執筆していますが、今回はこれらの発掘された11~14世紀の硫黄交易からの考察でした。

 個人的にも徳之島郷土研究会が2000年に発行した「改訂新版 奄美の歴史と年表(第三版)」を元に自分なりの歴史年表を作っているのですが、単独で見るとわからないものが、同じ年表に並べていくことで新たなものが見えてきます。

 高梨さんはまず奄美大島・喜界島・徳之島で発見された古代・中世の遺跡を踏まえたうえで、中世日本の”境界”に着目します。
 鎌倉幕府の成立する頃の中世日本の境界は東の果てが「外ヶ浜」(現在の青森県)、西の端を「キガイガシマ」あるいは「イオウガシマ」としています。
 大量に発掘されたヤコウガイの遺跡はおおよそ奈良・平安時代のものだろうと言われています。調べてみると、そのヤコウガイを使った螺鈿細工が施された中尊寺金色堂が建立されたのがちょうど真ん中の時代、1124年です。
 5年ほど前に発掘され太宰府と同じようなランクの建物や人々が住んでいたのではないかと言われている喜界島の城久(ぐすく)遺跡が9世紀~14世紀。徳之島のカムィヤキ遺跡が11世紀~14世紀中頃と言われています。
 また、宇検村の倉木崎遺跡から出てきた中国製陶器の年代が12世紀後半から13世紀初頭と言われていて、韓国近海でも同年代の陶器を積んだ・同時期の沈船が見つかっています。

 高梨さんはこれに、1188年に源頼朝が”キカイガシマ”征討を行ったことに着目し、単に義経追討、あるいはみずからの武威を国内にアピールしたということではなく、ある資源を確保するためだと仮説します。
 それは”硫黄”です。
 源頼朝が”キカイガシマ”征討をおこなった理由やその後については資料がないのですが、10世紀から13世紀に行われていた日宋貿易で硫黄が主力輸出品ではないかと考えます。
 当時、宋では火薬兵器が発達していましたが、活火山がほとんどありませんので原材料となる硫黄がありません。
 そこで種子島の近くにある硫黄島からの硫黄を流通する交易圏が硫黄島から喜界島にあったのではないかと考えます。
 そして境界が”キカイガシマ”という表記と”イオウガシマ”という表記があるのは国内の威信財としてのヤコウガイ交易と海外への硫黄交易としての意味を示しているのではないか。
 さらに源頼朝が”キカイガシマ”へ征討を行ったのは、逃げ落ちた平家が硫黄の利権を元に再興するのを阻止し、硫黄利権を手に入れるためではないかという説です。
 また、徳之島のカムィヤキは韓国の研究家が高句麗の焼物だと断言しています。ということは高句麗から徳之島へ技術者がやってきていた、交易があったということです。高句麗も宋に対して硫黄を出荷していたはずで、徳之島の真横にある硫黄鳥島を見逃すはずがない。
 こうして奄美大島・喜界島・徳之島の遺跡が示すのは、中世日本というより、この時代の海を繋いだ広大な交易拠点がここにあったのではないかということでした。

 ちなみに硫黄鳥島は徳之島のすぐ横にあるにも関わらず、現在でも沖縄県です。
 これは琉球国の時代に琉球国が中国との貿易でも硫黄鳥島の硫黄を貴重な輸出品として取り扱っていたことによるようです。

 こういうことがわかってくると、さらには奄美・沖縄の文化はどこからどう伝わって変化したかというのがこれから変わってくるかもしれませんね。

 同時に発表された、「『おもろさうし』の成立時期ー漢語の用法から」や「琉球語の中の奄美方言」でも、タイトル通り「沖縄文化はどこから来たか」を考えさせる内容でした。

(ここに書いた内容は私の解釈、その後に調べたものです。発表者の方への問い合わせはご遠慮下さい。間違いなどがありましたらご指摘ください。)

コメント

  1. biza より:

    奄美はいろんな講演会イベントが多くていいですねー。
    高梨さんのお話、うかがいたかったなぁ。残念。

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